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トピックス


左)菊地智子 《長江の河際でのファー》 重慶, 2008年
右)田口和奈 《ブルーの青み》 2012年, Courtesy of the ShugoArts



日本の新進作家 vol.11
somewhere between me and this world Japanese contemporary photography


将来性のある作家を発掘し、新しい創造活動の展開の場として毎年開催している「日本の新進作家」展。第11回となった本展では5人の女性作家を取り上げます。様々な問題が山積する現代にあって、彼女たちはどのように今を捉え、自分たちの足下を見つめているのでしょうか。本展担当学芸員のエッセイから考察します。


「失われた20年」と言われる。わたしはこの言葉に違和感がある。「失われた20年」が経済的観点からの1990年代から2000年代への評価であるとは知っていても、なお違和感が拭えないのは、そこには1990年以前への懐古の念が漂っているからである。デフレによる消費や投資の停滞、雇用環境の悪化による非正規労働者の増加、所得格差の増大、厖大な財政赤字、少子高齢化、急激な円高・株安、輸出の減少、それに追い打ちをかけるような、東日本大震災と原発事故。確かにこの国には閉塞感と不安感が立ちこめている。それでも、この20年間が「失われた」とはわたしには思えない。


26歳の社会学者・古市憲寿は、非正規雇用による格差や高齢化による現役世代の負担増などの世代間格差によって「不幸」を報じられる若者を分析して、いや、「日本の若者は幸せ」※なのだと言う。(内閣府の『国民生活に関する世論調査』によれば)日本の若者の7割が今の生活に満足しているのだ。この満足度は、他の世代よりも高い。30代でこの数値は65.2%、40代で58.3%、50代では55.3%まで下がる。古市は過去の若者論を分析した上で、仲間との小さな幸せを求め、「今、ここ」に満足しながら、同時に、変わらない毎日に閉塞感を感じ、社会や将来に対して不安を持つ若者像を称して「絶望の国の幸福な若者たち」と呼んでいる。


この20年間で「失われた」のは、既得権益を持つ大きな集団や制度、それに基づく価値観への信頼である。金融資本主義も官僚制度も家父長制度も、二大政党制も大企業中心主義も、グローバル化も市場中心主義も、ほんとうのところは誰のためのシステムなのかと疑うようになった。「失われた20年」とは、そうした信頼を失った権力や経済的な優位を甘受した者たちが、「昔は良かった」と嘆く自己憐憫の言葉である。社会状況の変化によって、変わってしまった人々の意識に応じてシステムや制度を変更するのではなく、信頼を失った旧態依然のシステムや価値観を無理矢理稼働させていることが、閉塞感と不安感の原因である。そんな「絶望の国」の社会や政治にうんざりして見限って、若者は慎ましくも堅実に「今、ここ」に幸せを見いだそうとしているのだろう。
本展は、1972年から1979年生まれの5人の女性作家を取り上げている。いずれもバブル崩壊後に成人し、この10年余でアーティストとしてのキャリアを確実に積み上げてきた作家たちである。閉塞感と不安感に満ちて、様々な問題が山積し、既存の価値観が大きく変化している現代にあって、それでも彼女たちはそれぞれが自分の足下を見つめながら自分の課題と格闘し、独自の世界を創造している。今もっとも勢いのある新進作家5人の作品を考えることで、日本の「今」の一側面を浮かび上がらせてみたい。
※古市憲寿『絶望の国の幸福な若者たち』講談社、2011年、p.7より



大塚千野のタイムマシーン

「Imagine Finding Me」と題された作品は一見、誰でも自分のアルバムに貼ってある、ありがちな旅先のスナップショットに見える。色褪せた小さなL判サイズの写真には、どれも少女と大人の女性が写っている。それが過去の大塚千野と現在の大塚千野のダブル・セルフポートレイトだと気付いたとき、俄然、それぞれの写真から重層な意味が立ち上がってくるのである。彼女の過去への旅は、センチメンタルではなく、ノスタルジーの趣もない。作品の中で、少し不機嫌に佇む少女は独立した一人の個としてまっすぐ前を向いて一生懸命に世界と対峙している。家族とは、国とは、言葉とは、人との関係とは、わたしとは...、誰もが逃れられない問いを、彼女はごまかすことなく真摯に問い続けている。


大塚千野/10歳で単身英国のサマーヒルスクールに留学し、その体験を綴ったエッセイ『サマーヒル少女日記』で注目を浴びる。ヘルシンキ写真トリエナーレ2009や「The Sum of Myself-Self portraits」展(ロサンゼルスカウンティ美術館LACMA)など欧米を拠点に多くの展覧会に招待されている。2012年、オランダのハウス・マルセイユ写真美術館で個展を開催した。



大塚千野 《1976 and 2005, Kamakura, Japan》 2005年

田口和奈の女性像

彼女はファッション雑誌を集め、そこに掲載された複数の写真をモチーフに、写真のようなリアリティで女性像をキャンバスに描く。その絵をもう一度写真に撮って、暗室作業で試行錯誤を繰り返して最終的なプリントに仕上げている。写真というメディアに備わっている現実性の前提が裏切られることにより、見る者は見ることそのものを疑わざるを得なくなる。そしてそれは作者の意図どおり、メディアが発するイメージが溢れ、リアルとバーチャルが混在し、自分自身が消失していくような不安に襲われる、「私」と「あなた」が交換可能な現実世界の騙し絵となっている。


田口和奈/2008年東京芸術大学美術研究科博士後期課程修了。2010年五島記念文化賞新人賞を受賞し、ウィーン、ロンドンに滞在する。「横浜トリエンナーレ2011」他国際展に多く招待されている。

菊地智子の中国

「The way we are」と題されたシリーズは中国のトランスジェンダーやドラッグクィーンを写している。菊地智子はドキュメンタリー写真の正道を歩んでいる。何年もかけて主題にじっくりと取り組み、彼女達が置かれている状況を重層的に調査して客観的に描こうとしている点で伝統的なドキュメンタリーであり、また、被写体との距離感は、自分の最も大切な者たちへと注ぐ眼差しである点で、プライベート・ドキュメンタリーに近い。驚くべき速さで激変する中国社会に翻弄されながら、自分のセクシュアリティと向き合い格闘する彼女達の姿は、そのまま菊地智子のものなのだろう。


菊地智子/1996年武蔵野美術大学空間演出デザイン学部卒業。翌年に香港に移住。1999年から北京に拠点を移し、『News Week』『New York Times』『Far east economic Review』『Paris Match』『V magazine』など、雑誌・新聞等を中心に活躍する。



菊地智子 《バー「零点」の楽屋で踊るヤンヤン、河北省》 2007年

蔵真墨の伊勢参り

「お伊勢参り」には、来生の救済のための純粋な巡礼という大義名分にかこつけた、観光や他の目的も入り交じった本音が混じる。自分の写真に行き詰まった果ての気分転換としての「旅」と、それでもカメラを携帯せずにはいられない自分を自覚し、その自分が注ぐ視線を確かめるための「巡礼」。蔵真墨が「お伊勢参り」と名付けたのはそんな意味が込められているからである。蔵真墨の視線は確かに、優しいものではない。けれども本人が自認するほど、冷え冷えとした視線でもない。彼女はすれ違って、もう会うこともない人々や瞬間を愛おしんでいる。彼らの何気ない仕草や表情や、それが作り出す空気の中に、今を生きる強さと困難さと危うさを見ている。


蔵真墨/1988年同志社大学文学部英文学科卒業。2010年さがみはら写真新人奨励賞受賞。2001年以降、多くの個展を開催している。写真集に『蔵のお伊勢参り』(蒼穹舎, 2011年)、『kura』(蒼穹舎、2010年)他。



蔵真墨 《愛知県名古屋市》 2008年 Courtesy of ZEIT-FOTO SALON
笹岡啓子のフィッシング

「Fishing」と題された一連のシリーズでは、いずれも遠景で撮られた釣り人が立っている。ぴんと張った空気の中で、釣り人は何ら特別な存在ではなく、海と空と崖に溶け込んでいる。「竿を振り、糸を垂れる。全神経をわずかな糸の動きに集中させている。透明な糸に沿って光が走る。張り詰めた糸は見えない暗い海の中に照応している。束の間のことだとしても、釣り人の姿は過去からも未来からも隔てられ、海とひと連なりになる」。自分に纏っているすべての記憶や歴史、日常のあれこれ、すべての煩わしさを削ぎ落とし、自分という自意識さえも消却する瞬間、自分と世界との間のどこかに存在する、理想の風景を笹岡啓子は描き出している。


笹岡啓子/2002年東京造形大学卒業。2008年に「VOCA展2008」奨励賞を、2010年に日本写真協会新人賞を受賞。写真集に『EQUIVALENT』(Rat Hole Gallery, 2010年)、『PARK CITY』(インスクリプト、2009年)他。



笹岡啓子 《Itoman,Okinawa》 2011年


笠原美智子(東京都写真美術館学芸員)/『日本の新進作家 vol.11 この世界とわたしのどこか』展図録 より抜粋
※カタログは当館ミュージアムショップで発売します